ぼうっとした頭で、数馬は押し入れを見た。 布団をしかなければなんともならない。
それなのに、授業が終わり部屋に戻ってからも座り込んだまま数馬は動けないでいた。
頭は痛いし、喉も腫れているようで、唾を飲み込むのすら辛い。 ついでに言えば、関節も首も痛く、皮膚ですら衣が擦れるだけで痛む有り様でいる。
「うー…」
数馬が思わず唸った時だった。 とたとたと足音が聞こえて、ノックもなしに引き戸が開く。 数馬あ、と聞きなれた声がした。
「三日後の合同実習の事で相談なんだけどよー、」
ひょい、と衝立を覗きこんできたのはやはり作兵衛だ。 数馬の赤い顔、潤んだ目を見て、驚きの声が上がる。
「数馬、どうした! すげえ熱あるだろ、その顔…」
「待って!」
駆け寄ろうとした作兵衛の動きを、数馬は右手を前に出すことで制した。 反射で作兵衛の足が止まる。 数馬はほっと息をついた。
「近寄ると、うつる。 この前の流行り風邪で今、無駄に使える薬がないんだ。」
苦しい息でそれでも笑って言えば、作兵衛は顔を歪めた。 どこか抑えた口調で藤内はどうした、と聞かれる。
数馬が答えるより先に、作兵衛は思い出した。
「たしか、作法委員、泊まりで出掛けてるよな。」
青ざめた作兵衛に数馬はへにゃりと笑う。
「うん、いたらうつしてたかもだから、よかったよ。」
「…っ、おまえは、どうして…!」
急に大きな声を出した作兵衛に、数馬はぱちりと目をしばたいた。
作兵衛は、まだ何か言いたそうだったが、口をつぐみ押し入れへ歩みより音を立てないようそっと開け、布団を敷き始めた。
それを、数馬はぼうっとした頭で眺めている。 話したせいで喉が痛い。 考えが纏まらず、ただ作兵衛の行動を見守っていると、布団を敷き終えた彼が、布団越しに数馬の方を向いた。
「その様子じゃ医務室に行ってねえだろ。 伊作先輩か新野先生呼んでくっから、布団入ってろ、いいな。」
「え、でも、」
「いいから。 …さっきでかい声だして悪かったな。」
作兵衛は立ち上がり、数馬が何か言う前に部屋を出ていってしまった。 戸の閉め方も、やはり音を立てないよう、気遣ったもので数馬は相変わらずだと思う。
相変わらず、作兵衛は度はずれて優しい。
熱で軋む体をなんとか動かし、布団へと入り込んで、ふう、と息をついた。
数馬は力尽きたように、眠りへとおちていく。


作兵衛は、数馬はどうしてああなんだ、と腹立たしい思いで医務室へと急いでいた。
「っとに、自分の事も労れってんだ。 治ったら説教してやる。」
人にはああだこうだと言うくせに、自分の事になるとすぐに大丈夫と言うんだから、と作兵衛の憤りは続く。 だから、数馬に対しては大丈夫かとは聞けないのだと作兵衛は思う。 たまに、反射ではないかと思うほど、数馬は大丈夫と返してくる。 それは症状が重いほど顕著に現れるようだった。
医務室に名を告げて入れば、伊作がいた。
「あれ、富松。 どうしたのかな。」
「数馬が、熱を出しました。 すごく辛そうなので、部屋まで来ていただけないでしょうか。」
何か書き付けていた伊作は、頷いて立ち上がり、薬棚を物色する。
「ああ、これも切らしてたか。」
そう小さく作兵衛の耳に入り、だから数馬はああ言ったのかと得心した。 少し前に学園で流行った風邪のために薬が不足しているのだ。 季節のせいで補充も難しい。
「伊作先輩、お願いがあるんです。」
伊作はわかっている様にうん、と頷いて作兵衛の言葉を待った。


ひた、と冷たいものが額に当てられたような気がして、数馬はぼんやりと目を開けた。
冷たいもの、と思ったのは手のひらだった。
「ん、起こしちまったか。わり。」
「…! さ、作兵衛!」
こんな近くにいたらうつってしまうじゃないかと、数馬は慌てて半身を起こそうとした。 が、体が軋み、呻くだけになってしまった。 作兵衛はそんな数馬に笑って見せる。
「さっきまで伊作先輩がいたんだ。 やっぱりこの間はやった風邪が数馬にもうつってたんだろうってさ。 数馬あんま休めてなかったろ、だから潜伏してた菌が今になって出てきたんじゃないかって言ってたぞ。」
「作兵衛、そんな事より、離れて…。」
掠れる声で数馬が言うと、作兵衛は眉をひそめた。
「ばあか、おれ、絶対に数馬の風邪うつんねえから、おとなしく看病されろ。」
「な、なんだよ、その根拠。 こうして寝てれば治るから、お願いだから離れてよ。」
数馬が更に言い募れば、作兵衛も、負けじと、言葉を紡ぐ。
「おれさ、伊作先輩に色々聞いてきたんだ。 すっげえ注意する、気をつける油断しねえ。 だから看病させろ、なっ!」
数馬は突然ふわり、と頭を撫でられて、でも、と出かけた言葉が消えてしまった。
作兵衛の手はどこまでも優しく、笑顔は安心させてくれるものだった。 このまま、甘えてしまえたらどんなに楽か、と思えば、知らず数馬は涙をほたりほたりと落としていた。 視界が滲んだことに気づいて涙を止めようと思ったけれど、意に反して涙は更に量を増すばかりで数馬の頭は混乱した。
自分は保健委員だ。 風邪なんかで甘えて良いはずがない。
「熱ある時って、涙もろくなるよな。」
数馬の涙を拭い、作兵衛が柔らかく笑った。 その手を、とってしまいたい。 そんな数馬の葛藤を、作兵衛はわかっているように、数馬と呼んだ。
「甘えるのは、病人の特権なんだろう? 保健委員でもなんでも病人は病人だ。 思いっきり甘やかしてやる。」
もう、だめだった。 強がっていた心は砕け散り、腕が作兵衛を求めて伸びる。 その手はなんなく冷たい手に包まれた。 ほたほたと涙が止まらず、けれど受け入れられたことがたまらなく嬉しい。
よしよしと頭を撫でられて、いつもと反対だ、と思う。 普段なら気恥ずかしいその行為は、今はやたらに安心させてくれた。 次第に気持ちが落ち着いて、涙も止まる。
作兵衛は手を離す前に、数馬の額に触れた。 数馬には、ひやりと冷たいそれは、作兵衛に数馬の熱を伝える。
「数馬、…なんか食えそうか? 伊作先輩が診てくれてたとき、お粥作ってきたんだけど。」
「作兵衛が? 食べたいな。」
本当は何かを食べようと思える気分ではなかったけれど、作兵衛が自分のために作ってきてくれたものなら、一口でも食べたいと思った。
それに食べなければ薬も飲めない。 せっかく伊作が少ない薬の中から出してくれたものだ。 無駄にできない。
「体、起こすぞ?」
「ふふ、作兵衛、優しい。」
作兵衛が背中に手を回して、半身を起こす手伝いをしてくれるのが素直に嬉しくて数馬は微笑んだ。
作兵衛は思いがけず褒められて面映ゆいのか、ばあか、と悪態をついて、おかゆを器に盛る。
「おら、食えるだけで、いいかんな。」
「わあ、おいしそう。」
卵も一緒に入っていて、なるほどこれは左近の作ったものじゃないな、と数馬は思う。 左近はあまり具を入れない。
匙にほんの少しすくって、口へと運ぶ。
ようやっと、碗の三分の一ほど食べて、数馬は匙を置いた。 全部食べられなくて申し訳ないな、と思っていると、よく食べたな、と作兵衛はまた数馬の頭を撫でた。
「…、ちょっと、子供扱いしてるでしょ。」
「たまにはいいんだよ。 こんな事いつもある訳じゃねえんだから。」
薬と水を差し出されて、数馬は少し顔をしかめる。
「これ、苦いんだよなあ。」
「保健委員のお前がそう言うってことは相当だな。」
頷いて、えいっとばかりに流し込む。 何とも言えない独特の苦みが口に広がって顔をしかめていると、作兵衛が水飴を差しだしてきた。
「伊作先輩が、薬の後に舐めろってさ。」
「うう、もらうー。」
ほんの少ししかないそれを、大事に舐める。 苦みだけでなく喉の痛みも少し慰められるようで、数馬はふう、と息をついた。
「横になるか。」
「うん。」
数馬がもそもそと布団に潜るのを、作兵衛が手伝う。
「しばらく作兵衛に足向けて寝れないなあ。」
「んなこと言ったら、おれらはみんなお前に足向けらんねえよ。 ほら、いいから寝ろ。」
言葉の割にそっとした手つきで、濡らした手拭いを額にのせる作兵衛に、数馬は満足そうに微笑む。
「熱に浮かされてるから言うけどね。」
「うん?」
数馬の声は掠れて聞き取りづらい。
作兵衛は数馬に顔を寄せる。 少しでも小さな声で話せるようにと思ったからだ。
「作兵衛のね、掛け値なしに優しいところ、ぼく、大好きなんだあ。」
へにゃりと笑う数馬は、そのまま眠りに落ちてしまった。

作兵衛は、ぽかんとしてそれを見守った後みるみるうちに真っ赤になっていく。
「か、数、数馬のバカヤロー…!」
不意打ちにも程がある、とか、言い逃げじゃねえか、とか、ぐるぐると文句が頭の中を駆け巡る。
その後で、何だか自分が情けなくも感じた。
「…っとに、強いやつだよ、お前は。」
寝ている数馬の髪をぐしゃりと撫ぜて、呟く。  ふうふうと浅い息を繰り返す数馬は、相当辛いはずなのに、常に看病している作兵衛を気遣っていた。
作兵衛に風邪がうつらないようにと、口元を押さえたり少し体を離したりして。
そのくらい気付くのだと、苦しそうな数馬の顔をじっと見る。
(あん時だってそうだ、みんな風邪引いて臥せってた時も、ちっとも心配いらない、治るって数馬の態度に出ていて、随分慰められたんだ。)
それに比べて、自分はどうだ。 目の前にいるのは数馬一人だけだというのに、不安でたまらない。
「ちゃんと、治るよな…、数馬。」
小さく小さく口にして、数馬の手を握る。 早くよくなれ、と祈るのが今は精一杯だった。



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